自由論
こんにちは。
今日は、イギリスの哲学者である「ジョン・シュチュワート・ミル」が書かれた「自由論」についての感想を書いてみました。
「自由」に対して、社会のあり方はどのような形が望ましいのでしょうか。
僕たち個人は、社会を形成している1つ1つのピースです。
そんな僕たち各個人が何をすればいいのかが書かれた本だと思います。
・組織の中でマネジメントに携わっている方
・これからそういう立場になる予定の方
・自由って何なの?と感じている方
あと、私は特にそうなのですが、
・他人の目線が気になって「自分の意見」を押し殺しがちな方
も読まれるといい本なのかなと感じましたよ。
個人的にもっとも印象に残っているのは
「われわれはなるべく変わった人になるのが望ましい」というフレーズです。
自分は変わった人かもな…と自覚のある人なんかは、励まされ、生きる力が湧いてくるんじゃないでしょうかね。
さて、本書は5章から構成されていて、
「質的功利主義」「多数派の専制」「社会的自由」という3本柱のキーワードが出てきています。聞きなれない言葉で少し難しいですよね。
1つずつ見ていきましょう。
質的功利主義
「質的功利主義」は、簡単に言うと…
できるだけ多くの人が、できるだけ多くの幸福を感じること。それを数値に表したものです。
資本主義で言えば、より多くの人の利益と言っていいと思います。この表現は好きではないですけどね。
功利主義っていう言葉は、紀元前から使われていたんですって。
3歳から父親より英才教育を受けた著者のミル自身が改良して「質的功利主義」にした言葉のようです。質にも差があるよと主張したかったのかな。
何せ、ミルは自分の活動を社会の幸せにつなげようと努力した人ですよ。
ただ、20歳の時に「うつ状態」になった人でもあります。
多数派の専制
これは、多数派の意見が中心となって治められている社会のことです。
著者のミル自身が生きた、19世紀のイギリスも産業革命後に市民権を獲得していく過程にありましたから、このことは色々と考えるところがあったのでしょうね。
この多数派の専制の怖いところは、仮に間違えた意見であっても、多数派の意見が押し通されコントロールされているところではないでしょうか。民主主義とは聞こえがいいですが、とても民主主義とは呼べない現実もあり得あるのかもしれないです。
例えば、会社の中で明らかに悪習慣である長時間の無駄な会議。ある新人の勇気ある人が「無駄だと思うので見直しませんか」と声をあげたとしても「昔からそうだから」「上の人が今のままがやり易いっていうし、誰も反対しないから」などと多数決の意見で何も変わらないなんていうことは、よく見る光景かなと思います。
社会的自由
19世紀でも現代でも、日常生活は進んでいきますよね。
今晩の献立は何にしょう?という日常のことから
将来何の仕事をしようかな?という個人意思の自由があります。
一方で、一人一人の主義や思想により、文章にして出版したり、たくさんの人の前で言葉や意見にしたり、行動にうつしたりする社会的な行動まで色々な自由があります。
著者のミルは、この後者の社会的自由についてある主張をしています。
ただ、自由とはいえ、2人以上の人が集まると、相手の意見や行動に対して意見や行動をやめさせようとする自由もまた存在します。
ミルは、これをシンプルに「社会的自由」として明らかにしたかったんだと思います。
「本書の目的は極めてシンプルな原理を明示することにある」
自由論 第1章 はじめに より
とも明記されています。
僕がここで「なるほどなー」と思ったのは、家族や地域、会社組織の中で、どこまで「自由」に振舞っていいのか、口出ししてもいいのかというシンプルな彼の意見です。
あくまで著者の意見について僕が勝手に「なるほどなー」と思ったことなので、ブログを読まれている方にとって「違う」と思われても当然だと思いますし、それこそ自由ですよね。
ただ、次の1点は知っておかれて損はないかと…
それは、
人間は個人としてであれ集団としてであれ、他の人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られることである。
文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかのひとびとに危害がおよぼうのを防ぐためである場合に限られる。
自由論 第1章 はじめに より
とうものです。
僕はこれを、「他人に危害を加えないことが自由の条件なのかー」と理解しました。
自由といっても、何でもかんでもやっていいということにはならないんですね。
こうやって言葉にしてみると、当たり前すぎる…。とも感じます。
これを踏まえた上で、著者のミルは「自由な社会には3つの条件がある」と主張してます。
① 意見や感想を述べる自由
② 目的追求の自由
③ 団結する自由
これも、当たり前のように見えますよね。著者が言いたかったのは正にここの部分で、この当たり前の自由を受け取れていない人が多くいるんだということです。
例えば、自由な意見を言えば叩かれる、自由な行動をとれば「それ間違っているからちゃんと正して!」と注意を受ける、勇気を出して会議で意見をしたら「少数派だ」ということで尊重されず無視されるなどが、皆さんの毎日でも当たり前にあるのではないでしょうか。僕も感じることがありますよ。
そして、自戒の念を込めて感想を書きますと、間違った意見があって当然で、思ったことを言って議論をした方がいいということです。議論をしないと、何故その行動に至ったのかという意見もなく、人々は自分の頭で考えることをしなくなり、いつの間にか出来上がった組織内のルールに思考が停止した状態で従うだけの行動が増えてしまいます。そして、偏見がはびこるというのです。
少数派の意見の中に、実はみんなが探し求めていた答えがあることもありますからね。
ガラパゴス携帯(ガラケー)からスマートフォンに変わった2008年頃は正にそうです。
ボタンが無い携帯電話なんて使い物にならないという意見が大半だったと記憶しています。
議論しないことには、こういった使ってもないのに「使い物にならない」というような偏見が生まれるんですよね。
幸福の要素としての個性
自由論で、もっとも響いたのはこの第3章です。
重要なことは、自分の今のことや、明日のこと、将来のことは自分が選択するということです。
他人の意見に流されたり、大多数の人がやっているからとそういう理由だけで選択したり、社会的な慣習や常識にとらわれたりしないことです。
いつの間にか、多数派の意見に縛られてしまって、行動を決めている自分がいるなぁと感じました。
では、どうすれば、この当たり前を思い出して、自己選択ができるようになるのでしょうか?
それが、冒頭でも書きました「なるべく変わった人になる」ということだと結論づけられています。
個性を押し殺してしまうより、変わった人になった方が、社会も発展すると。
僕たちは、それを怖がって、諦めているだけなのかも知れません。
同じ型で同じように育つとは限らないですよね。
子供たちの成績を見ていても思います。
部下たちの仕事の結果を見ていてもそう思います。
ある人は、飲み会が大好きだけど、ある人は苦痛でしかないという意見も耳にすることがあります。
なのに、当たり前を忘れて、大多数の意見でない人を叩いたりしがち。反抗的な邪魔者とさえ言われることがあります。まさに「自由」がない状態なのかなと感じます。
自由論:感想
著者のミルは、社会が個性(多様性や特異性)をもっと認めるようになると、社会全体が進歩し、より自由で幸福な社会が実現していく…と主張しているように感じました。
そのためには、あえて変な人になることを恐れず、自分の頭で思考して、言動を決めていける自由な人になりたいなと感じました。
あなたはどうお感じになられたでしょうか。
おすすめの1冊です。よかったら、ぜひ書店でもAmazonでもお手にとってみて下さい。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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