自分の中に毒を持て

自分の中に毒を持て

岡本太郎さんが、1993年に出版された本について、自分の中に大きな反響をもたらしていますので、ブログで書き留めておきたいと思います。

自分の中に毒を持て

岡本太郎さんといえば、「芸術は爆発だ!」の名言と、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会の象徴である「太陽の塔」の作品、強面の顔くらいしか知らなかったです。

この方の生き様は、とても真似をできるものではないですが、文字が生命に響きます。

何故、そのような反響をもたらしたのかなと、岡本太郎さんの生涯をみてみると、すごい人生を歩んでこられた方だからだということが理解できました。僕なりに簡単にまとめたので、もしよかったらお読み下さい。

幼少期

岡本太郎さんは、1911年(明治44年)に 神奈川県の川崎市に生まれた。

小学校1年生の時に学校の先生や方針と何度も衝突して転校を繰り返す少年でした。

小学校1年生の、ある授業中のことです。

授業

先生から「漢字で1、2、3を書けるものは居るか?」と投げかけられたときに、挙手をして「じゃあ、書いてみたまえ」と当てられます。岡本少年は、黒板に漢字で1〜4までの数字を書きました。その時に「四」の書き順を間違えたのです。

口を書いてから中を書いたのです。そのことを、先生に生徒みんなの前でボロカスに怒られました。この時「何故そんな注意の仕方なのか」と反発したのでしょうね。そして、翌日から学校に行かなくなりました。

その後、転校を何度か繰り返したそうです。その都度の、学校の方針や先生のやり方(体罰含む)が「自分の考え方と違う、間違えている」と感じると、とことん向き合い戦うタイプの小学校低学年だったようですね。だって、転校までしちゃうんですよ。

僕の小学校時代を思い出しても、すでにこの時から生き方が違いすぎる・・・。と思いました。

家庭環境

そんな岡本さんは、どのような家庭環境で育ったのでしょうか。

家庭環境

父親は岡本一平さんという有名人で、四コマ漫画の産みの親と言われている方です。お金もあったのでしょうね。いい学校に通われていましたから。でも、お父さんは、お金があるので、外で浮気をして好き勝手に生きているタイプの方だったようです。

母親のかな子さんは、お嬢様育ちで家事や育児が一切できない方だったようです。ここからは、更に理解ができないのですが、夫の自由な生き方を黙認する変わりに、かな子さんは自分の彼氏を自宅に住まわせていたようです。

「愛人ではありません」と言い張っていたようですが、実質愛人でしょう。

自由な父親、母親と彼氏と一緒に一つ屋根の下で暮らしていた岡本少年。どんな思いで毎日を過ごしたのでしょうか。

これだけでも、独特な家庭環境で育った少年だったんだなということがわかりました。ちなみに「結婚」については、とても否定的な方だったようです。そりゃそうなるかぁ。

転機 

1930年(昭和5年)に、岡本青年は家族ともどもパリに引っ越します。

この時、父親や母親はもちろんですが、母親:かな子さんの彼氏も一緒でした。ご両親は、2年ほどで日本に帰国されたようです。岡本さんは、そのまま残り、芸術以外にも、政治や経済も学ぶことになります。

そこで、生涯を変える作品に出会ったのです。パブロ・ピカソの「水差しと果物鉢」です。

「水差しと果物鉢」

出典:【楽天市場】パブロ・ピカソ「水差しと果物鉢」より

岡本さんは、衝撃を受けます。

「ピカソは天才だ・・・」と。

それと同時に、「この作品を超えるような作品を作りたい」「新しい時代に一石を投じたい、時代を切り開きたい」というような想いを、心の底から感じたようです。

戦争

1940年(昭和15年)フランスでは、戦争の真っ只中でした。ナチスドイツがパリを占拠した時期ですね。岡本さんは、その直前に日本に帰国していたので難を逃れていました。でも、日本でも戦争が始まっていました。

ナチスドイツ

日中戦争です。岡本さんも、兵役で徴集され、30代の身体では訓練がつらかったようです。

戦争がようやう終わり、帰宅したら、自宅も今までの創作品も全て燃えていました。

それでも、パリで衝撃を受けた情熱は燃え盛っていましたので、次々と作品を発表します。

それらは、ことごとく批判されました。「下手くそ」「色音痴だ」など、好き勝手なことを言われました。

アイデンティティ

ピカソを超えたいが、ピカソの真似ではダメだ。自分なりのアイデンティティが必要と考えていた岡本さんは、1952年(昭和27年)にあるものに度肝を抜かれることになります。

それが、縄文土器です。

「これだ!」と感じました。

代表作品である「太陽の塔」も、縄文土器に影響をうけたのかなというように個人的に思います。

また、岡本さんの著作の1つに「今日の芸術:」というベストセラー作品があります。

岡本太郎

出典:光文社知恵の森文庫の表紙写真

その中で、芸術の三原則を明記されていのですが、その内容がすごいのです。

芸術の三原則

 1 うまくあってはいけない

 2 きれいであってはいけない

 3 心地よくてはいけない

岡本さんは、相対的な価値や評価を卑しいものと捉えておられたようです。

良いもの、綺麗なものは、周りの人が勝手に決めた評価であり、自分のやりたいことや情熱とは別のものである。周りの評価を得ようとした作品は芸術ではない!ということでしょうか。

「他人の目を気にするな」というメッセージも僕は受け取りました。

人間は、他人から褒められたいし、好かれたいという生き物です。でも、そもそも宇宙からしたらちっぽけな存在でもあります。純粋に、自分が生きたいように生きて、自分が選択した生き方で嫌われるのならそれでいいという価値観ですね。

今では評価されている「太陽の塔」も、万博当時は不評だったと聞いて驚きました。相手に伝わらなくてもいいと思うくらい純粋な情熱だったんだろうなぁ。

幸福よりも瞬間の歓喜

岡本さんは、幸福よりも、瞬間の歓喜が重要だとおっしゃっています。

瞬間

著作の中にも「瞬間瞬間を生きる」という言葉が繰り返し出てきます。

未熟でいいんだ。未熟は素晴らしい。全く悪いことではない。

どちらかといえば、孤独ないフリ、充実した生活をしているフリ、賢いフリの方がよっぽど悪いことだ。

自分個人の言動や、日々のSNSの発信を思い返して「ドキッ」となりました。

未熟な自分で平気で生きればいいのだ。周りの人が勝手に評価した自分を生きることは、人生に妥協していることでもある。

「人生に妥協するな」

他人の目を気にせずに生きるんだ。

妥協

辛いことが多くなるだろう。

仲間外れになることもあるだろう。

でも本当に生きるためには、そういう見えない自分と戦わなくてはいけない。

など、心にグサグサと刺さる名言がたくさんありました。強い人だと思います。

岡本太郎だからできた?

岡本さんは、「岡本太郎だからできたんでしょ」とみんなに言われたそうです。

僕もそのように思います。

岡本太郎

出典:Wikipedia:岡本太郎より

ただ、彼は「違う」と断言しています。

「逆だ。自分をとことんまで危険にさらすから勇気が出てくる」「そういう生き方になるんだ」と。

未熟でいいから、そのままの自分で挑戦するんだ。

周りの人に相談して、安全な道を選ぶくらいなら、「そんなの無理だ」と言われる危険な道を選びなさい。

岡本さんは、この言葉を生き方で体現した方だと思います。

万博での象徴である「太陽の塔」。もともとは30mの高さで、建物に入るように設計を依頼されていたようですが、結果的に70mの高さで仕上がりました。主催される方と揉めたようですが、自分の想いを貫き通し、最終的には屋根をなくして設置されたというエピソードがあります。

僕の中で規格外すぎて、本当に自分を貫き通すすごい人だなと思います。

さいごに

全部で4章で構成されてる「自分の中に毒を持て」です。

内容より、岡本太郎さんの生き方に焦点をあてて、内容にあまり触れることができていないかも知れないですが、一度お手にとって読んで頂きたい、現代人に届けたい本です。

真似をしたくても、なかなか勇気がいる内容ですが、中には「少しでも情熱を感じるやら、やってみたらいい」「未熟でいいから」「瞬間瞬間を生きるんだ」というメッセージを受け取りました。

神奈川県に、太郎記念館があるようなので、新型コロナウイルスが落ち着いたら一度足を運んでみようと思います。

最後まで、お読み頂きありがとうございます。